(資料)高千穂町と国学


本居派と高千穂の国学者たち
 江戸中期以後、古来の神話などを研究する国学が盛んになります。その中心となったのが「古事記伝」を著した著名な国学者・本居宣長でした。高千穂では土持完治が国学の基礎を築きました。そして延岡の樋口種実、三ヶ所(後に高千穂)の碓井元亮、僧の寛隆らが本居宣長の養子・本居大平に入門。さらに後、碓井元亮のほか、種実の長子・樋口英吉、完治の長子・土持信贇らが太平の子・本居内遠に入門しています。この他にも延岡の白瀬永年(「延陵世鑑」著者)など臼杵郡には多くの国学者がおり、早くから交遊が深かったようです。
 このような国学の隆盛は、幕末に向け全国的な勤王倒幕運動・そして明治維新への流れを作っていきます。また「臼杵高千穂説」対「霧島高千穂説」の論争を生み、高千穂郷民においてはここを神域とする思想を強め、これが杉山健吾等による「高千穂神領運動」に発展しました。

樋口種実
 延岡の国学者で歌人。商家に生まれ、本居太平に師事し、天保13年(1842)には国学館から日本史校合の命を受けました。猿楽の研究や神跡調査を行い、土持完治の協力を得て「高千穂庄神跡明細記」、また「高千穂百首」・「古事記私考」など10余冊の遺稿が残されています。


寛隆(1770〜1854)
 玄武山正念寺(大字上野)の十代住職。仏典はもとより、国学などあらゆる学問に親しんだ博学の人だったようです。本居宣長と市川匡麻呂の説への批評である「内股膏薬」、また、高千穂の古跡に関する「高千穂曰」を著しています。また、「延陵世鑑」、「方順日記」、「三田井落城記」等多くの郷土資料の写本・収集に努め、これら数百巻に及ぶ書物は、明治23年の正念寺火災でも幸い焼失を免れました。高千穂神領運動では杉山健吾が京都に入るのを助けたといわれています。


杉山健吾
 上野村庄屋。特に皇道国学を研究し、「高千穂郷は天孫降臨の聖地であり、朝廷直属の霊地であるべき。」との信念を持っていました。これは神孫領主・三田井家滅亡後、延岡藩支配下にあった郷民たちの世論であり、岩戸の土持完治ら高千穂郷の庄屋達と共に神領として復帰させるための策略を企てます(高千穂神領運動)。健吾は密かに京都に上り、尽力の末、高千穂神領の勅許を受けました。この密勅を携え帰郷しようとした健吾でしたが、これを知った延岡藩は謀反者として豊後の鶴崎で健吾を捕え、これにより高千穂神領運動は頓挫してしまいました。




土持完治・信贇
 土持完治整信は岩戸村庄屋。敬神尊皇の志が強く、また勤勉で倹約家でもあったようです。また村人に茶や椎茸の栽培を奨励するなど、政治的にも優れていました。妻・園女も和漢の学に通じ、まじめで厳しい人だったようです。
 その長子・霊太郎信贇(1814〜1897)は三ヶ所村から招いた医師・碓井元亮、また後には延岡の樋口種実に師事し、さらに紀州・本居内遠を師と仰ぎました。天性の歌人でもあり、高千穂随一の書家としても知られました。天保3年(1832)に庄屋を継いでからは実務でも多くの功績を上げ、中でも黒原用水、東岸寺用水などの水利開発に力を尽くします。明治になってからも県社祠官・戸長など要職を歴任しますが、晩年は専ら神道の啓発につとめました。
 明治3年に薩摩藩の国学者、八田喜左衛門知紀が高千穂の古跡調査に来た時の土持霊太郎信贇との歌問答は有名です。
 2月27日に宮水酒屋に泊まって、翌28日と29日を三田井の中心を廻ったあと、宮水から八田知紀は、「しるべする君なかりせば高千穂の神のみあとをいかで知らまじ。我がために咲きけむ花の色そえてかけし言葉の露そさやけき。たかちほの山の麓に住む人のことばの花は世に似ざりけり。」という歌を送りました。これは、前日信贇が高千穂を案内して、三田井の庄屋元に一緒に泊まって、八田大人の古蹟見巡り給ひけるをり、「高千ほのみねはときみに問はれてもふること知らぬ身は甲斐ぞなき。」をりしも2月末つかた道すがら花のさきたりけるをみて、「高千ほの山さくら花この春は君がためとやとくにほらむ。」という歌を示した時に、八田知紀は返歌しましょうと言ったまま宮水に引移ったので、其の返歌でした。

  

碓井元亮・玄良
 碓井元亮維貞(1777〜)は豊後佐伯の藩医の家に生まれ、三ヶ所村(現在の五ヶ瀬町大字三ヶ所)で医者をしていましたが、岩戸村の土持父子と国学を通じて親交があり、その招きで62才でに岩戸村永之内に移りました。
 当時9歳だったその次男・玄良維徳(1830〜1907)は後に豊後で医学、長崎で蘭学を修め、帰村して医業を開きました。そのかたわら、耕地の少ない岩戸村の実情を憂いて、水利と新田の開発に着手し、長期に及ぶ難工事の陣頭に立ち続けました。また、村会議員、郡会議員、県会議員を歴任し多くの功績を残しました
 
文久3年(1863)延岡藩の学者、樋口種実が藩命で高千穂の神跡調査に来た時、玄良維徳は種実と歌問答をしています。
 公の仰せことかゝむり、高千穂の神跡たずねめぐりし時、維徳(玄良)ぬしのもとより、「わけ登る君こそはらえ天降らしゝ名さえ埋みし峯の八重雲。」なりけるに、「我がせこがかねてわけずは高千穂の八重山雲やわびしからまし。」同じ人の、霧島山を高千穂峯なりと、さかしら人のいうを聞きて、「高千穂は高く尊く立ちまよう霧島山にまごう峯かわ。」とあるに、「たちかくす霧島山は世に消えて名はいや高し高千穂のたけ。七十翁種実」と記しています。この時、種実70歳、玄良33歳でした。


表紙に戻る  インターネット展示室の目次へ 江戸時代へ


ページ上の文・画像の著作権は特に断りがない限り、高千穂町教育委員会に帰属します。無断複製を禁じます。(2002年5月14日) Takachiho Board of Education © 2002, All Right Reserved.