高千穂の歴史(安土桃山〜江戸時代)


日向の諸勢力
 織田信長の全国統一のゆめは豊臣秀吉に引き継がれ、その後、日向はいくつかの勢力に分けられました。

三田井氏の滅亡
 秀吉の九州平定により、延岡地方の領主として高橋元種が赴任しました。1591年(天正19年)、高橋元種は三田井氏を支配下に治めるため、三田井家の重臣甲斐宗摂を味方に引き入れ、兵を派遣しました。
 この戦いで、三田井親武をはじめ一族の殆どは討死にし、1598年(慶長3年)、岩戸永之内城主富高大膳を最後に三田井氏は滅亡しました。




親武の首塚    富高大膳の墓


郷土に残された文書
 歴史を学び調べる上で、古い時代に書かれた文書(古文書)は大変貴重な資料です。特に、安土・桃山時代〜江戸時代は文書による支配が確立した時代で、幕府や大名(領主・藩主)が作成した法令の伝達はすべて文書で行なわれました。
 農村では年貢の納入、土地、人口台帳、村明細帳など多くの文書作成義務が村長(庄屋・弁指など)に命ぜられました。
 高千穂地方にはこうした文書が各地の旧家で今もたくさん保管されています。(宮崎県の古文書にみる彗星の記録)


江戸幕府と農村
 秀吉の死後、政権を手にした徳川家康は江戸幕府を開き、強大な経済力をもとに朝廷、全国の諸大名、寺社を統制しました。その後、全国支配の幕藩体制、キリスト教弾圧、鎖国政策などの封建制度が確立されました。
 農民は武士に次ぐ身分で、本百姓と水呑百姓に区別されました。高千穂地方では本百姓の中から庄屋・弁指・組頭の村役人が選ばれ、領主の指図で村を治めました。また五戸ごとに組をつくり、年貢の完納や犯罪の防止に共同の責任を負わされました。

 
五ヶ所矢津田庄屋屋敷の石畳        岩戸村土持庄屋屋敷の遠景
 
上岩戸中の内、三本松御番所跡                   河内夕塩御番所跡
   
夕塩御番所役人墓地看板   慶応元年工藤重長墓      元治元年工藤重喜養母墓       文政7年佐藤氏伯母墓 

農民のくらし
 江戸時代の記録では、当時高千穂地方の水田は少なく、米は盆・正月・葬式の膳などに使用されるのが精いっぱいで、日頃は粟・玉蜀黍・麦・蕎麦・稗・里芋などを常食し、飢饉の年には葛の根・すずの実(竹の実)・雑草などを食べ、飢えをしのぎました。
 そうした生活でも、農民には「物成」という年貢米の他すべての作物に税がかけられ、苦しい生活をしいられました。
 こうしたことから領主の政策に反抗する「百姓一揆」が増え、1755年(宝暦5年)、山裏村(上岩戸地区)では重税と村役人への不満が爆発、248人が豊後岡藩の領内に逃散するという事件もありました。


山裏百姓逃散記念碑


高千穂神領運動
 江戸時代の中頃から日本の古典を研究する国学が発展し、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を及ぼしました。
 1847年(弘化4年)、国学の影響を受けた郷民の一部は延岡藩の政治に不満をいだき、高千穂郷を神領地にしようと、高千穂郷18ヶ村の庄屋を中心に密かに運動をすすめました。その代表として、上野村の杉山健吾は京都に上り神領の勅許を受けましたが、帰郷中の大分鶴崎で延岡藩に捕らえられ、運動は挫折しました。
詳しい資料


近代国家への歩み
 長い鎖国政策をとっていた幕府は、欧米列国の圧力で、ついに開国に踏み切りました。
 鎖国が解かれ、やがて薩摩・長州を中心とした倒幕運動がおこり、江戸幕府は滅び、新しい政府が生まれました。
 新政府は近代国家としての道を歩み、欧米諸国のすすんだ文化を積極的にとりいれたため、生活や教育制度も大いに整備されましたが、一方では神徒改宗・廃仏棄釈などが叫ばれ、貴重な文化遺産が壊されるなどの悪い風習もありました。


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