高千穂町の民話と伝承


鬼八退治と猪掛祭の由来

 高千穂神楽の神楽歌に「谷が八つ峯が九つ戸が一つ鬼の住処はあららぎの里」とあります。「あららぎの里」は今日の高千穂神社一帯と言われ、高千穂峡から高千穂神社への途中に「八谷九峯」と「鬼ヶ窟」と呼ばれる場所も残っています。
 その昔、荒神・鬼八(きはち)は、村人に災いをなしたため、乳が窟に潜んでいたところを三毛入野命(ミケヌノミコト・神武天皇の兄)に攻め追われます。三毛入野命は丹部大臣・宗重と若丹部大臣・佐田重と共についに鬼八を倒します。しかし鬼八は蘇生しようとしたため、改めてその体を3つに切りわけ、3ヶ所に埋葬しました。
 このミケヌノミコトとその妻子=十社大明神を祀ったのが、高千穂神社です。鬼八が埋葬されたとされるところには「鬼八塚」が建立されていますが、ホテル神州そばにある塚が「首塚」、神仙旅館西50メートルの田の畦のものが「胴塚」、高千穂高校裏淡路城中腹のものが「手足塚」であると言われています。また高千穂峡には鬼八が投げたと伝えられる「鬼の力石」があり、大字上野字鬼切畑には鬼八を切った場所とされる「鬼切石」があります。大字向山椎屋谷の竹の迫には「鬼八の膝付き石」があり、鬼八が膝を付いて十社大明神(高千穂神社)へ弓を射た場所と伝えられています。
 高千穂神社に伝わる古式・猪掛祭(ししかけまつり)は鬼八の祟り(早霜の害)を鎮めるための慰霊祭と伝えられ、毎年旧暦12月3日に執りおこなわれます。祭壇にはイノシシをまるごと一頭供えますが、かつて乙女を生贄としていたところ、戦国時代に日之影町中崎城の城主・甲斐宗摂の命により、日之影町大人で捕えたイノシシを身代わりに供えるようになったと伝えられています。(猪掛祭については「祭りと伝統芸能」のページ参照

なお、阿蘇地方にも類似の「鬼八(金八)伝説」が伝わっているそうです。

 
 上野鬼切畑の鬼切石の看板                上野鬼切畑の鬼切石
 
淡路城中腹にある鬼八塚(手足塚)         神仙旅館西50mにある鬼八塚(胴塚)
 
ホテル神州の前の鬼八塚(首塚)での猪掛祭の神事                    高千穂峡の鬼の力石

 
向山椎屋谷竹の迫の鬼八の膝付き石(鬼八が、この石に膝を付いて、ここから十社大明神へ弓を射たといわれています。)

浅ヶ部の鬼八伝説

 JA高千穂地区「かるめご」2012年N0.223安在一夫「西臼杵の姓氏」62−G漆島氏・宇留島氏で紹介された浅ヶ部の山川の田部家の伝説です。
 「浅ヶ部夜神楽の奉仕者の一人田部精次郎さんは神楽の師匠や先輩、古老から「お前のとこは悪いことはない、悪いのはご先祖の妻を盗った奴よ」と聞かされた。どういうことかと云えば田部さんの一族は鬼八の子孫で「よそ者に妻を奪われた挙句、殺された者の血筋じゃ」ということであった。一般に古文書や伝承では神武東征から帰ったミケイリノミコト(正市位様・日向国宇戸里より来たとも)が鬼八の美貌の妻(ウノメノゴゼン)を見染めてその夫である荒ぶる神、鬼八を亡きものにしようと追い廻し家臣の田部の左大臣と富高の右大臣等により二上山の麓チンチガイワヤにて討取られるという鬼退治のストーリーとなる。浅ヶ部田部家は鬼八退治の一人丹部の大臣むね重につながる田部氏と思っていたが全く逆の鬼八の末裔とは意外である。何故なのか、それはどのような意味があるのかを追ってみた。浅ヶ部の最上部山川(やまご)に鬼八の屋敷跡があった。「八五郎屋敷」と云う。屋敷跡は精次郎さんの土地である。先年基盤整備をすることになりブルトーザーで整地開墾中に屋敷跡から一間四方の巨石が出土した。始末に困った業者はダイナマイトで爆破したとのことである。おそらく鬼八につながる遺跡で供養の石造板碑であったろう、惜しい事をした。…(以下省略)」
 このお話によると浅ヶ部の伝説では、鬼八の末裔は興梠氏でなく田部氏という説とのことです。

姥岳(うばだけ)伝説

 高千穂町の北境に座す祖母山(1756m)は古くから神峰として信仰の対象でした。これはその祖母山にまつわる伝説です。(詳しい資料へ

「高千穂の故事伝説・民話」より「祖母山のはなし」
 今から一千年前のことでありました。祖母山の麓に、塩田の庄という村がありました。その村の庄屋大神氏の家に美しい姫がいました。年頃になると、毎晩の様に烏帽子姿の気品のある美青年が通っていました。その若者は姫がいくら聞いても名前も、住居も告げず夜中に来ては明け方になると消える様に帰っていきました。
 その内に姫のお腹が段々大きくなってきました。どうしても名前も住居も教えてくれないので、乳母に相談しますと、乳母は「若者が朝方帰って行く時、若者に気づかれない様に長い糸のついた針を狩衣の襟に刺しておくとよいだろう。」といいますので、姫はそのようにしておきました。
 夜が明けてから姫は、その糸をたどってどんどんいきますと、祖母山の中腹にある大きなほら穴の中に続いております。姫はそのほら穴の中まではいって見ますと、中から人間とも、けものともわからない大きなうめき声が聞こえてきます。こわいものは見たいもので、なおも中の方に入って見ますとどうでしょう。大きな蛇が、のどのところに針がささってもがき苦しんでおります。姫はこわさも忘れてそばにかけより、その針を取ってやりました。そうすると蛇は「有難う、私はこんな姿だったから、住居も名前も言う事ができなかったが、今この姿を見られてしまったからには何もかも話しましょう。」と次の様な話をしました。
 「私は祖母岳大明神の化身なのです。あなたがあんまり美しいので、すきですきでたまらずあなたのところにかよいました。あなたはやがて、男の子が生まれるでしょう。そしてその子は大きくなったら九州一の武将になるでしょう。」といい残して息を引きとりました。
 その後姫は男の子を産み、その子が大人になると蛇が言ったとおり、九州一の武将になりました。その武将には高千穂太郎を初め九人の男の子が生まれました。その中の高千穂太郎は成人して三田井氏の養子となり、三田井家繁栄の六百年の礎を築きました。
 祖母山は神山として古くから祭られており、神武天皇の祖母豊玉姫を祭り、姥岳とも高千穂明神とも言われております。

九右衛門伝説

 猟師たちの間で伝えられてきた猟の名手・九右衛門の逸話です。
 ある時、猟のため山に入り化け物に襲われた九右衛門は、鉄砲の弾を撃ち尽くして、最後に残った菩薩の御利益のある予備弾でようやくその化け物を倒しました。翌朝その正体が、先頃から家に住み着いていた黒猫だったとわかります。これを機に九右衛門はこれまで繰り返してきた殺生を反省し、観音像を背負って母と共に諸国遍路の旅に出ました。母子が東北にまで行きついたとき、あるところで観音様が重く動かなくなってしまい、その地に観音様を安置して帰郷の途につきました。大正時代になって山形県に九右衛門ゆかりの観音堂が残されている事が確認され、この伝説が史実を含んでいることがわかりました。(詳しい資料へ

夢買い三弥

 岩戸地区に伝わるお話で、土呂久鉱山の起源と言われています。(土呂久鉱山については「産業」のページへ

「高千穂町史」(1973)より

 むかし 豊後の商人森田三弥という者が友人の商人と一しよに豊後から山を越して日向に行商に入りこんだ。
 ある日二人は山道を歩き廻り、疲れたので暫く峠に休憩した。
 ひどくくたびれておったものと見えて暖かい陽気の為か、そのまゝ二人とも眠るともなしに眠ってしまった。
 しばらくして二人は目を覚ましたが、連れの商人がいうには
 「今へんな夢を見た 山の中を歩いていると山の神様が出て来て 附いて来いと 言われる ついて行くと 山中に連れて行ってこゝを見よといわれる 見ていると蜂が飛んで来て そこの山の中の土中にもぐったと思うと、金の粉をくわえて出て来る 又しばらくすると外の蜂が金の粉をくわえて出て来る その蜂を捕まえようとしたら目が覚めた 夢なんて他愛もないもんだなあ」という
 聞いていた三弥は何を考えたのか急に
 「その夢を私に売ってくれ」といゝ出した。
 友人は「夢を買うなんてそんな馬鹿な」といって本気にしない
 三弥があまり熱心に頼むので「そんならいゝよ」といって 夢に見た山の様子を精しく話してくれた
 三弥は「よしそれでは確かに買った」といって なにがしかの金を友人に渡した
 友人は「夢を買うなんて物好きにも程がある」といって笑ったが 三弥は友人が夢で見た通りの山をさがし廻った。
 あった!! 友人が夢で見たという山容の山に三弥は岩戸村の土呂久で出会った。
 そして三弥はその山につるはしを打ち込んだ。予想は誤らず友人が夢で見た通りのかな山に掘り当てたのであった。
 これが岩戸土呂久銀山の始まりであると伝える

義民・作蔵の処刑
 三田井に現存する作蔵神社の由来に関するものです。
 百姓の作蔵とその弟が中心になり、藩の圧政に反発して一揆を企てました。二人は捕らえられ死罪の沙汰を受けますが、作蔵を慕う農民たちの嘆願により、藩は減刑を決めます。しかし、処刑の日、減刑の知らせがそこまで来ていたというのに、作蔵はあえなく処刑されてしまいました。
 作蔵の供養塔と後に建てられた作蔵神社は、上半身の病気に御利益があると言われます。(詳しい資料へ

竜宮帰りの伝説
 浦島太郎の物語に代表されるような、神隠しにあった人が後年突然戻ってくる、というタイプの民話です。高千穂町に伝わる二つの物語をご紹介します。
「竜宮の玉伝説」
 田原の宮尾野に伝わるものです。
 ある百姓が山で薪を採っているとき、誤って鉈の刃を川に落としました。それを拾おうと淵に潜ったものの、それきり行方知れずとなり、残された家族は男が死んだものとして葬式を上げました。ところが三年後、供養のお経を上げているところに、男は突然戻ってきます。そして「淵に潜っていったら竜宮にたどりついた。そこで三日間御馳走になった。」と言い、そこで貰ったという美しい玉二つを皆に示しました。この玉は今日にも伝えられています。(詳しい資料へ
「二ツ岳の仙人」
 上岩戸と日之影町との境にある二ツ岳にまつわるお話です。
 一人の猟師が山で道に迷い、どうしても里に下りられなくなりました。さまよっているうちに、山中の小さな家にたどり着き、ここで一人の老人から親切を受けます。ここでしばらく居眠りをしたあと、道を教わって里におり、ようやく家に帰り着いたときにはもう日が暮れていました。家に入ると、家人達は猟師の姿を見て大騒ぎ。実は、猟師が山で消息を絶って三年も経っていたのでした。(詳しい資料へ

クマのたたりと熊塚

 古文書や戦前の記録によると祖母傾山系や諸塚山付近にも熊が生息し、希に猟で仕留められることもありました。熊の胆嚢は「熊の胆(くまのい)」という万能薬になり、大変高価であったということです。しかし、猟師の間では、「クマを殺す一匹でも七代祟る。(※)」と信じられていたので、捕殺した熊の供養のため「熊塚」(または「熊墓」)を建立する習慣がありました。町内にもいくつかが残っていますが、、その形式は様々です。また熊の手を家宝(魔除け)として祭ってある家が複数あります。(祖母山系のツキノワグマについては「自然」のページ参照
 祖母山系の親父山は、クマの俗称「オヤジ」に因んだものと言われ、かつて親父山山麓には特に多くの熊が生息していたと思われます。ちなみにアイヌ語では「クマ」のことを「カムィ(神)」と言うそうです。「神々の里〜高千穂〜」には「クマ」がたくさんいたかもしれません。

(注※イノシシやシカを千匹捕ると「千匹塚」という供養塔を建て供養するという風習があります。)

   
大字河内 熊野鳴滝神社境内の熊塚     左図熊塚に祭られる彫刻のある石版


大字岩戸字馬生木の熊の墓

龍駒伝説

 「祖母大崩山群」(加藤数巧、1959)によれば…祖母山に龍駒という頭に一角を持つ雄馬がいました。龍駒は、時々、祖母山の麓の大字五ヶ所字笈の町の佐藤家の斑の雌馬のところへ遊びに来ていました。その後、子馬が生まれ、斑で頭に一角が生えていました。子馬の死後、角が佐藤家の家宝とされていましたが、質に入れられ大分県へ流れたということです。
 大分県南海部郡弥生町のKさん宅に「馬の角」は残っていました。近所の明治小学校100年祭で「我が家の家宝展」を行うことになり、Kさんも「馬の角」を出品しようと考え、近所の人に話したところ、「馬に角がある訳がない!馬か鹿かもわからない。」と文字通り馬鹿にされ悔しい思いをされたそうです。
 その後、Kさんは定年退職され、なにか趣味を持とうということで、登山をされたそうです。その後、登山友達から「祖母大崩山群」の本を貸してもらい、自分の家に伝わる「馬の角」が祖母山の龍駒の子馬のものであると確信し、大字五ヶ所字笈の町の佐藤家へ行ってみようということになりました。笈の町というぐらいだから、大きな町なのではないか?と思い、事前に何の連絡も取らずに行ってみたところ、たまたま大字五ヶ所の祖母嶽神社の秋祭りで、「どこから来られたの?まあ、飲みませんか?食べませんか?」の接待を受け、「これは祖母山の神様のご縁かもしれない。」と思われ、家宝の馬の角を高千穂町歴史民俗資料館へ寄贈されました。Kさんのお父さんからKさんが譲り受けた際、「我が家の家宝だから大切にしなさい」と言われ、金庫にしまっていたそうですが、防虫剤を入れていなかったので、現在はボロボロの小さな破片になっていますが、箱と書き付けの3点セットで残っており、民俗学的にも貴重な史料です。(くわしい資料へ
 「馬の角」は、横浜の「馬の博物館」や沖縄県の久米島の個人蔵、福岡県北九州市黒崎の個人蔵など全国で数ヶ所が知られており、南方熊楠も青森県の例を紹介しています。



表紙に戻る  インターネット展示室の目次へ  民話(大人向け)へ


ページ上の文・画像の著作権は特に断りがない限り、高千穂町教育委員会に帰属します。無断複製を禁じます。(2002年5月14日) Takachiho Board of Education © 2002, All Right Reserved.