(資料)B29・隼墜落事故


B−29墜落      甲斐秀国

 ゴーッ。ズガーン。ズババン。 隣県大分の尾平鉱山を見おろす古祖母(五ヶ所では障子岳を古祖母と言う)の九合目あたり、五メートル先も視界のきかない深い霧の中で、ものすごい爆音と銃声が朝の静けさを破った。昭和二十年八月、終戦の日から数日後の午前七時頃の出来事であった。
 標高千四百メートルを越える山中は、真夏でも肌寒い。山頂付近の樹齢百年にのびる巨木はなぎ倒され、一面の焼け野原。あたりは機体の破片や四畳半の部屋ほどもある巨大な四つのエンジンが散乱。アメリカ兵十数人の死体。そして何よりも目を奪われたのは、足元に転がっている缶詰めなどの食料であった。低空を飛行中のB−29が山に接触し、そのまま古祖母に激突。近くには着陸できるような場所などなく、後からきた米軍機がパラシュートで付近に救援物資を投下していったのであった。
 終戦当時の誰も彼も食料に不自由していた食料難の時代のことだったから、空腹をかかえ、蟻の子が蟻塚を目指すように、熊本、大分からも噂を聞きつけて集まってきた。私の村からも一人行き、二人出かけ「缶詰めがあった」といえば、次のひから仕事もそこそこに、村人総出で、男も女も片道四時間の道のりを苦にもせず、腰まで水につかって川を渡り、山を越え、泥まみれになって食料捜しに出かけた。着いてみると、毎日100人もの人びとがやってきては、かつえた犬が餌を奪い合うように、目の色を変えている。側には、初めて見るアメリカ人の死体がころがっていた。死体を恐ろしいとは思うものの、食べ物の魅力には勝てず、恐ろしさも忘れて、いつか缶詰め捜しに夢中になっていた。
 缶詰めのほかにガム、タバコ、救命ボート、落下傘、果ては機体の電線に至るまで、食べられるもの、使えそうなものは全部持って帰った。初めて口にしたガムは、かんだ後ゴクリと飲み込む始末。缶切りなどなかったので、鎌の先をひっかけたり、ナタを使って十の字に切り開く。缶詰めの中は、菓子やコーヒー、角砂糖、ビスケットなどの珍しい物ばかりであった。食料が無くなると、救命ボートも引き裂き、奪い合って持ち帰った。米軍の落下傘の布やひもは非常に丈夫で、服にすると破れることはなかった。飛行機のタイヤに目をつけ、これを切り取ってぞうりを作る人もいる。
 この食料捜しは三ヶ月ほども続いた。二週間ほどで食料は跡形もなく取り尽くされたにもかかわらず、三ヶ月間も山へ通う人々は跡を絶えなかったのだ。―「家へ帰っても、どうせ食べる物はありゃせんのだから」―この執念深さは、当時の食料事情をよく物語っていると思う。
 アメリカ兵の死体は墜落の二、三日後に、当時、警察の管轄下にあった警防団の手で葬られた。団員だった私も埋める作業をしたが、中には足が体から離れているものや、腹部が中断していて内臓に蛆の湧いている死体もあった。数ヵ月後、アメリカ陸軍のジープが遺体収容にやってきた。戦時中には「鬼畜米英!」と教え込まれ、自分もそう信じ込んでいた。しかし、米兵が墜落現場付近の土をふるって、亡くなった兵士の髪の毛一本さえ異国の地に残すまいとする姿に触れて、当時十五歳だった私はそれまで抱いていたアメリカ人に対する考えを一遍に打ち壊されてしまう思いがした。恥ずかしい話であるが、缶詰め捜しに来て、ブルーの瞳で金髪の米兵の死体を見つけては「こりゃ男じゃろかい、女じゃろかい」と、ズボンをはぎ取って見る者もいたのである。本来なら、同じ人間として丁重に葬ってやるべきであろうに、戦争は、そんな人間らしさをも私たちから奪い取ってしまったのであった。
 私の家は西臼杵郡の五ヶ所という山村にあり、父母と姉、私、妹二人に弟二人の八人家族だった。家には馬一頭とわずかな畑があり、畑にはとうきびを作っていた。父は馬を使って熊本、田原間で馬車引きの運送業をしていた。しかし、私が尋常高等小学校六年のときに馬が死んで、三十五年間続けた馬車引きをやめることになった。畑からの収穫だけでは、とても家族は食べていけず、そこで、地主から二反の土地を借り入れて小作を始めた。
 牛馬もなく手鍬で耕した土地からとれた穀物も、半分は地主に取り立てられ、子供心にも「せっかく作ったのに、こんなにたくさん持っていかれて……。全部とりたい」と、なんともくやしく、情けない思いをした。その上、収穫に対して一定の供出の割合が決まっており、不作の年は特に、食べて行くのに大変な思いをした。
 追加のとうきびなどの供出があり、村ごとに不足分の割り当てがまわってきたが、最後の数俵をどの家が負担するかということになると、皆口を閉ざしてしまい、いっこうに、常会の話し合いは進まない。午前三時〜四時から空が白み始めるまで続いたこともあった。農家であれば多少の備蓄もあろうというのに、私の家はそれさえ残らず、一日一日、家族が食べて行くのが精一杯であった。「畑が欲しい、土地が欲しい」そんな思いが私を百姓へ、開拓へと駆り立てたのである。
 昭和十七年、私が十三歳のときに、私の家出は福岡の地主から三、四町の山林の管理をまかされた。管理をするかたわらで、私たちは杉の育たない造林に不向きな土地を選び、早速、開墾を始めた。土地と言っても、やぶや雑木の生い茂った荒れ地で、そのままでは何も植えることはできない。父や私のすぐ下の弟の手も借りて鍬一本で木の株を掘り返した。牛や馬もなく、農機具といえば鍬だけなのである。一日の仕事を日暮れに終えて家に帰ると体はクタクタであった。
 耕した土地はひどいやせ地であったが、入れる肥料もなかった。そこで、火をつけ、焼畑にした。とうきび、小豆、サツマイモ、あわ、そば、麦、陸稲などを植えたが、陸稲は途中で枯れてしまったり、育ちが悪かったりで、思うようにいかないので、雑穀を中心に作るようになった。早朝から日没まで開墾や農作業の連続で、手は豆だらけ。昼過ぎに母と二人で麦つきする間が唯一の休みであった。手を止めることは飢えることだった。からをかぶった麦を八百回もつくとようやく荒皮がとれて、何とか食べられるようになった。夕飯には、昼休みについたその麦が雑炊となって空腹をしのぐのだった。来年用にとっておいたそばの種も、割って食べなければ、明日食べる物にもことかいていた。
 家族八人が食べていくために無我夢中で耕し、作った穀物も、やっと芽が出たと喜んだのもつかの間。次の日には、きれいに猪にやられていることもたびたびであった。そんな生活の中で供出があるのは、大変な負担であった。「戦争さえなければ……」そんな思いが頭をかすめたのも一度や二度ではない。しかし、愚痴をこぼしてもおられなかった。一家の働き手の一人として、私の肩にはズッシリと、家族八人を養っていかねばならない責任がのしかかっていたのである。
 一日の食事はジャガイモをさいの目に刻んだものや、あらびきしたとうきびや大麦の雑炊。ひいいてできたとうきびの粉を集めては水を加えてだんごにし、平たく伸ばしていろりの端で焼いて食べていた。中に入れるあんなどはなく、カライモが少し中に入っていれば当時としては上等であった。とっておいた米は病人用の非常用のもので、普段は手つけることはできなかった。
 開拓の仕事は重労働のため空腹が体にこたえ、カライモのつる、カボチャの茎、観音草という草、すびらという固い根を三時間も煮たものなど、とにかく、食べられると聞けばとって全部食べていた。
 食べ物には敏感な時代であったから、「あの家には、隠し米がある」という噂でも立てば、警察がとんでいき、家の四方に見張りを立て猫の子一匹逃がさぬようにして家捜しをするというありさまであった。
 偏った食事のため、農作業に出ても力が入らず、手足に傷ができると、これが何週間も治らない。ちょっとした切り傷でもあると、火傷のように赤くはれ上がってしまうのである。軍隊で盲腸の患者がでると、数人がかりで押さえつけ、手足が動かないようにして麻酔もかけないまま手術をしていたというから、私たちがつける薬などあろうはずがない。
 傷があるときに青いとうきびなどを食べると傷口が膿を持ってしまい、その膿が体につくと、そこにまた傷ができてしまうのである。傷口の汁がついて衣服はガバガバ。固い繊維でできた粗末な下着も着替えが少ないので一週間は辛抱して着たが、汗とアンモニアの悪臭が鼻をつき、我慢できるものではなかった。
 また当時は開拓の重労働と空腹に加えて、シラミに悩まされた。体と言わず、衣服と言わずシラミがひっついていて、たき火の上でバタバタと衣服をふるうと、バチバチとシラミの焼ける音がする。衣服の内側に縫い目が白くなっているのでよく見ると、汚れではなく、シラミが縫い目に頭を突っ込んでビッシリと並んでいる。爪でこれをつぶしていくと、バチバチと腹のはじける音がして、爪には血がベッタリとついてしまう。
 頭に傷ができると傷口の汁を吸いにシラミが集まり、シラミはあちこちをはい廻るので汁がついて体中傷だらけ。傷口は髪の毛と一緒に固まってガバガバ。夜はシラミに血を吸われ。かゆさのために眠りきれず、寝返りを打たない夜はなかった。体中をボロボリかくので、肌はいつもガサガサであった。学校に行くと、床からシラミが足をはい上がってくる始末だった。
 シラミから解放されるのは週に一回風呂に入るときぐらいだった。風呂といっても、汚れや苔が水面を覆っていて、お湯は見えない。お湯をかぶると、反対に体がよごれてしまうのである。こんな状態はDDTが出回るまで続いた。
 終戦後も食料事情は悪く、牛泥棒やとうきびあらしが相次いだ。冬場のために食料を土の中に埋めておけば、夜のうちに盗まれてしまうのである。その頃から畑には夜ごとに鎌を持った見張りが立つようになり、泥棒と間違えられると危険なので、夜はうかつに外も歩けなくなってしまった。 「米の食える農業になってから嫁をもらおう」―これが私の夢だったが、畑の少なかった我が家では開拓が唯一の生きのびる道で、昭和二十六年に妻を迎えたときも、翌日だけ仕事を休んだだけで、翌翌日は早朝から妻も一緒に仕事に出かけなければならなかった。米飯が食卓を飾るようになったのは、昭和四十年からのことであった。
 戦時中、また終戦当時は、何とか生きのびようという気持ちで一杯だったが、苦しい生活の中で、生きることへの執着は不思議に強まるばかりであった。農家でさえこうだったから、町場の方々は大変なせいかつであったと思う。
 戦争への苦しみを全部思い出すことはできないし、思い出したくもない。もう戦争はこりごりである。繰り返したくない。

創価学会青年部反戦出版委員会第三文明社「戦争を知らない世代へD宮崎編大地に爪する想い〜戦中戦後の開拓の記録〜」1982年より




B29墜落現場を歩く工藤寛さん

THE WAR IS OVER(祖母山中B−29墜落悲話)  工藤寛(「県北の自然を語る会」会長)

 山はいろいろなドラマの舞台になっている。人と動物の係わる幾多のドラマがずっと昔から展開されてきた。そして、概して悲劇の舞台となった場合が多い。しかし、山はその大きな懐の中にすべてを包み込み泰然として太古のままの姿でいつの世にも何もなかったかのように聳え立っている。これが、人と山を昔から結びつけた所以であり信仰の対象として崇められてきた基本的な理由であろう。
 ところが、これらのドラマは人気の無い深い森の中で展開され、登場人物が一人である場合や、その場で尊い命を落としている場合が多く、事実と真実が後の世まで語り継がれるケースは稀である。ここにひとつの事件を紹介し、異国の山に静かに眠っている若き12名の兵士達の霊を鎮めてあげたい。
 昭和20年8月30日、終戦からわずかしか経ていない日のことである。雨前の濃霧の中を豊後水道を越え祖母傾の稜線を横切り熊本県菊池市にある外国人捕虜収容所(POW)へ補給物資を投下するために飛行中の一機の「空飛ぶ超要塞」B−29があった。機体番号44−61554。飛行高度約1,600メートル。当時の気象条件は宮崎地方気象台に保存されている区内管区気象月報原簿による午前10時現在の高千穂町三田井観測所の報告では気温24.2度、風向−、風力0、雲量10、天気雨、湿度99%、降水量5.5mmとなっている。いづれにせよ雨模様の極めて視界の悪い状況下にあったことには間違いない。昭和19年11月1日から、終戦の日までの9ヶ月半の間に延べ17,500機により約16万トンの爆弾を全国の主要都市に投下し焦土と化したB−29。昭和20年8月6日テニアン飛行場を真夜中に飛び立ったアメリカ第20航空軍第509戦隊指揮官ポール・チベッツ大佐の指揮する原爆搭載B−29「エノラ・ゲイ」は同日8時30分17秒に爆弾倉を開いたのである。そして広島は一瞬のうちに廃虚と化した。8月9日同じテニアン基地を発進したスィニー少佐操縦のB−29「ボックスカー」は10時58分長崎へ爆弾を投下した。このB−29が投下した2個の「新型爆弾」により「神州不滅」の国も無条件降伏が決まった。戦争は終わった。生きて故郷へ還れる喜びを胸にBaker,Henry機長以下11名の度重なる長距離爆撃飛行で鍛え抜かれたアメリカ空軍の乗組員達は、九州の屋根祖母山から傾山にかけての稜線をまさに越えようとしていた。祖国の威信を賭て戦った戦争。戦勝国の兵士達も生きている事実を確かめ合ながら全長43メートル、全幅43メートル全備重量46トンの機体の中にそれぞれの配置に着き、小雨混じりの濃い霧の中を数秒後に起こる惨劇を知る術もなく、あるものはロンソンのライターで煙草に火を着け、また、ある者はもうすぐ会える恋人の写真を眺めながら過ごしていた。執拗な日本軍の小型戦闘機の追撃の心配も無く、高射砲による対空砲撃の心配も無い九州の空を最後の任務を果たすべく悠々と飛んでいた。祖母山(1,757.5m)と傾山(1,603m)を結ぶ稜線の要とも言える障子岳(1,703m)の頂上付近を越えようとしていた瞬間に大惨事は発生した。機体の一部が尾根の部分に接触して、激しい衝撃とともに機体は瞬時にして火に包まれた。一瞬の出来事に脱出する機会は全く与えられなかった。Jack L Riggs操縦士の悲痛な叫び声とともに火ダルマになった空の超要塞は原生林の中を300mにわたり大木を藉ぎ倒し親父山(1,644m)の北西斜面に激突し爆発炎上したのである。小雨混じりの濃霧のたちこめるブナ、ミズナラ、ヒメシャラの生い茂る静かな森は悲劇の舞台となった。12名の若き乗組員は無残な姿で、バラバラになった機体から投げ出され酸鼻を極める地獄図絵となった。
 私が、この墜落事故について知ったのは、それ程古い話ではない。祖母・傾山系におけるツキノワグマの生息調査を続けながら頻繁にこの山系を歩いていた私は、今から2年前の10月のある日四季見原にテントを張り紅葉の中を親父山から障子岳へ向けて仲間2人と歩いていた。親父山山頂から障子岳まではゆっくり歩いて約30分の行程である。歩き始めるとすぐこの行程の中で一番大きな下り坂があり小さな鞍部を形成している。丁度この鞍部で足許に光る一個の金属片を見つけた。やっとの思いで埋まった部分を掘り起こしてみると精密にリベットが打たれ15桁程のアルファベットと数字が刻み込まれているステンレス製の精巧な部品である。航空機の一部分であることは容易に想像出来た。しかし、なぜ上空から落下したのか。また、なぜここに存在するのか不思議に思いつつも持ち歩き障子岳山頂の熊塚の横にそのまま放置して帰った。 子供の頃、故郷(宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸)の上空を超低空飛行で通過し古祖母山(1,633m)と本谷山(1,642m)により形成される尾根を横切る現在の県道高千穂・緒方線の尾平峠の大木に接触して墜落したアメリカ軍の輸送機の話は父から聞いたことがあった。しかし、この事故の現場とは位置的にも異なり、別の飛行機事故があったことを当然考えるようになった。同じ年の冬のある日、障子岳・古祖母山の中腹を通り尾平峠へ抜ける土呂久林道で猪猟をしていた知り合いのハンターに出会った。この地区の出身である氏に、この付近で起きた飛行機事故についてたずねてみた。意外に早く事故の事実を知ることができた。終戦直後の雨の日に親父山の近くに墜ちたアメリカ軍の飛行機があり10人位死んだことがあったというのである。そして、現場へ熊笹を分けながら“補給品”を回収に出掛けた者も多く、氏の亡兄もヘルメットや弾丸や得体の知れない金属製の筒等を拾って来たのを覚えているとの事であった。これでようやく「墜落事故」の事実だけは確認出来たが具体的に、いつ、どんな飛行機が、どんな事故で誰が乗っていたのかなどについて全く判然としないもどかしさが逆に何としてもこの事実を調査してみようという強い意志に変わってきた。終戦直後の大混乱期の出来事であり、しかも鬼畜米英と教え込まれたつい数日前までの敵国の飛行機事故でもある。果たしてどこまで調査出来るか自分自信疑問視していた。
 この調査において、何度も偶然の出来事に出会うのであるが、最初の偶然はすぐにやってきた。延岡市の古本屋で何気なく手にした一冊の本からこの事故の概要を知ることが出来たのである。“B−29墜落”の記事を見開きの中に見つけだした時に、まさかこんな形で情報が入手できるとは思ってもいなかった。それはおもに県内の戦後の開拓農民苦悩の歴史を取り扱った本であった。その中に私の人生でもっとも思い出に残る話として祖母山の麓の集落五ヶ所地区のKさんが書いたものであった。全文をここに紹介したいが紙面の都合で割愛せざるを得ない。とにかく終戦直後の雨の日、大きな音とともに障子岳近くにアメリカ軍のB−29が墜落し、終戦直後の物資の欠乏した時代に我先にと補給品を利用するために山に分け入り、10数人の青い目をしたアメリカの兵士達の見るも無残な死体を横目に缶詰や部品を持ち帰ったとの話である。その後しばらくして進駐軍のジープが村にやってきて現場から髪の毛一本残さずに故国へ持ち帰ろうとするアメリカ人の姿に接して今まで鬼のように思っていた自分が恥ずかしくなったとの内容であった。一片のステンレス製の部品に端を発したこの事故もようやく全容を知ることが出来た。偶然な出来事は重なるものである。数ヶ月後、仕事で熊本市へ出張し、深夜にタクシーを拾った。私に郷里の訛りがあったので少し話題を向けてみた。案の定私の勘は当たっていた。そして祖母山の麓の村の出身であるとの話から展開しKさんの事と「B−29墜落事故」の話について聞いてみると何とKさんの実弟であったのである。そして、墜落当時、Kさんが現場に駆け付け残骸のほとんどは今の五ヶ所バス停留所前に積み上げられ鹿児島の方へ運ばれたなど当時のことを語ってくれた。
 事実関係がほぼ確認できたので、早速墜落現場を確認することにした。平成2年5月第3回の自然観察会を親父山、障子岳一帯で開催することとなり、その現地調査を兼ねて下見を会員の松田、片伯部氏と実施することにした。2年前に見つけた金属片の位置を調査の重点地と定め尾根からわずかに60〜70m黒岳方面に下ると急に視界が開けた。墜落当時の爆発炎上で付近は広い範囲にわたって一定の樹齢の木は生えていなかった。すなわち樹齢45年以上の木はないのである。大きな残骸は何一つなかった。しかしアスベスト製の防弾壁やゴムホース、衝突の激しさを物語る潰れてしまったジュラルミン製の部品の一部、電気系統のコードや排気弁の付いた過給器らしい部品など10数点を発見することができた。特にこの過給器についている相当硬度の合金らしい歯車はすべてが変形し、かなりの速度で回転中に激突したことが予想された。
 これらの部品を一ヶ所に集め、静かにこの地に散ったアメリカ軍の兵士達の事を考えながら3人で黙祷を捧げた。私は戦争を知らない戦後生まれの世代である。しかし、山を通して故郷の山に人知れず眠っている彼らのことを考えると、誰かがこの事実を後世に伝えなければならないという使命感をその時、強く感じたものである。
 この機会にもっと詳しく、事実関係を整理し何とか記録を残すために思い切ってアメリカの関係当局に問い合わせてみることにした。もちろん、私の貧困な英語の力では手紙など書けるものではない。早速、日之影町在住の長期間アメリカ生活の経験があり、自ら兵役の経験もあると言う友金厚氏に依頼してみた。彼は、私の願いを快く引き受けすぐに東京の横田基地の担当官に電話を入れてくれた。そして、アラバマ州の空軍歴史研究所に再度手紙で問い合わせることにした。私どもの入手した情報から墜落の日時を昭和20年8月21日として調査の内容を報告した。すぐにJames H.Kitchens氏から一通の手紙が届いた。その内容は、この墜落事故に関して当研究所はいかなる事実も確認することができないのでもう一度墜落した日や内容を調査して欲しいとの内容であった。8月21日の日付は、聞き取り調査などにより総合的に判断していたものであり、多少の違いはあるものの何らかの事実の記載があるものと思っていただけに、具体的な調査はやはり無理かと半ばあきらめかけていたところに更に一通の手紙が同氏から届いた。8月30日に日之影町の友金氏が受け取っていることは偶然の一致であった。今から45年前のちょうどこの日に、B−29が祖母山系に墜落した事実が確認できたのである。Kitchins氏が他の部署に問い合わせ確認してくれたのである。それによると1945年8月30日、第40爆撃航空団第40爆撃軍団もJack,L,Riggs中尉の操縦するB−29(機体番号44−61554)が墜落し、12名の乗組員が全員即死したとの内容である。30ページにも及ぶ故の詳しい内容の報告書が添付されていた。事故の概要は、冒頭に当時の様子を想像しながら紹介したが、遺体の検死結果や、損傷の著しい遺体の確認をいかにしたかなど実に詳しく記録されていた。そしてこれらの作業に立会った関係者や目撃者の名前、年齢等も書かれている。報告書によると事故当日、これらの遺体をそれぞれの飛行機や作業着に包み6柱の十字に組んだ墓標を立て、仮埋葬したとのことである。しかし、これですべて終わった訳ではない。さらに、翌年の8月27日から28日にかけて、福岡の分遺隊から現地に遺体の確認と収容に訪れそれらの墓を丁寧に掘り起こして遺体を再度そして詳細に確認したのである。所持品の中には、一枚の白黒の女性の写真や、ロンソンのライター、卒業記念の指輪や、祈りのためのカードなどがあった。それぞれの認識票や所持品、髪の毛の色などにより一年後に全ての遺体が確認されたのである。原生林の中で、ただ土を浅く掘って石混じりの土を盛っただけの簡単な墓を掘り、懸命に仲間の遺骨を一刻も早く故国へ連れて帰ろうとするアメリカ軍の担当官の姿を想像しただけで何かしら言葉に言い表わせぬものを感じる。その後の経過については不明であるが、アーリントンの軍人墓地に12名の常に行動を供にした乗務員が並んで静かに眠っているに違いない。不勉強を悔いながら一人深夜に辞書を片手に机に向かい、写りの悪いコピーの一字一句を追いながら訳していくと、その情景が日本語以上に伝わってきた。故郷の山で死んだ異国の若き兵士達の事を思うと、目頭が熱くなるものを禁じ得なかった。  悲劇の舞台となった現場は、今も深い森に囲まれ何もなかったかのように四季折々の移ろいを見せている。彼らのことを知る者も少ない。そして、慰霊碑ひとつある訳でもなく、季節の花一本手向けられているものでもない。春夏秋冬、自然の流れのなかで季節の花が彼らの霊の眠った場所を覆い、そして小鳥のさえずりが彼らを慰めている。
 最後に、12名の隊員の名前、階級、認識番号を記す。
 Riggs,Jack L. 中尉 0-750848 Cornwell,John G. 少尉 0-778342 Willianson,George H. 中尉 0-865008 Eiken,Alfred F. 中尉 0-685455 Baker,Henry B. 大尉 0-375237 Frees,Henry N. 技術軍曹 16079237 Dangerfield,Jhon D. 伍長 39913681 Grorner,Solomon H. 技術軍曹 32818450 Gustaverson,Walter R. 技術軍曹 13129760 Miller,Bob L. 伍長 39931488 Hodges,Jhon W.,Jr. 軍曹 33645761 Henninger,Norman E. 軍曹 15323591 (注;ほとんどが20才前後であり、Hodges軍曹は遺体から20才以下とされている。)

(後記)  1945年8月30日、午後2時5分、12名の乗務員を乗せたB−29(機体番号44−61554)が祖母山系の親父山に墜落してから6時間後に一機の銀色のC−54が東の空から厚木飛行場の上空に姿を現わした。マッカーサーの愛機バターン号である。カーキ色の服にコーンパイプと黒眼鏡のマッカーサーが降りてきた。「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道程だった。しかし、万事はこれで終わったようだ。」  THE WAR IS OVER. 日本の新しい時代が始まった。実に多くの犠牲者と、多くのものを残しながら。 2年間思い詰めていたことを活字にして肩の荷が少し軽くなった。しがない山男が、ふと知ったひとつの戦史であり戦後生まれの若僧には重いペンであったが、なんとしても整理してみたかった。今回は多少会報用には長文となったが内容的にはその一部を紹介したに過ぎない。次回に再度すべての内容について書いてみたい。調査の途中で、同じ祖母山の麓の山に同年7月27日に激突した一人乗りの日本軍の小型戦闘機があることもわかった。また、昭和26年頃に、尾平峠に接触し墜落し4名全員が死亡したアメリカ軍の輸送機の事故のついても調べてみたい。また、これらの現場には、何とかして慰霊碑を建てて彼らのことを後世に伝えたい。
 大崩山系のモチダ谷を詰めた地点にある昭和33年5月21日に墜落して4名が死亡した大和航空ビーバー機の遭難事故については慰霊碑も現地に建てられているのでご存じの方も多いかと思う。  本調査はまだ終わった訳ではないが全面的にご協力戴いた日之影町の友金厚氏をはじめ高千穂町大字河内の安在計時氏ほか取材に応じて戴いた関係者各位に深甚なる敬意表しつつ、次のステップに進みたい。
 また、彼らの慰霊碑を建てる計画が具体化したら、皆様のご協力をお願いしたい。

【参考とした資料】
大地に爪する想い        第三文明社
東京を爆撃せよ         三省堂選書
B−29            サンケイ新聞出版局
日本占領            サンケイ新聞出版局
汚名「九大生体解剖事件」の真相 文春文庫

県北の自然を語る会会誌「ツチビノキ第2号」より


山懐に抱かれて      工藤寛

 軍人墓地は、村の中心地を見下ろす小高い丘の上にある。  かつては、熊本県高森と大分県竹田を結ぶ交通の要所として栄えたこの中心地も、全国の他の山村の例にもれず、戦後の高度経済成長とともに人と物の流れがすっかり変わってしまっている。商店街も店を閉じているのが目立つ。高千穂町の中心地三田井から車で約30分、ぶつかったところでT字路になり道路は左右に別れる。右にとれば祖母山の宮崎県側の登山口五ヶ所を経て竹田市へ、左にとれば阿蘇の外輪山を越えて高森町に至る。ちょうどT字路の正面に古いたたずまいを残す一軒の旅館「成喜屋」の墨で大きく書かれた古い木の看板が目立っている。
 軍人墓地には、約200基の墓石が奉霊殿を中心として左右に整然と並んでいる。戦没者英霊録によると一番古い戦死者は、明治10年3月13日に西南戦争て戦死した都茂三郎(当時25才)とされている。もちろん、大東亜戦争による戦死者が圧倒的に多い。この村に多い安在、河内、内倉、有藤、佐藤、興梠の姓が目立つ。日の丸の小旗に送られ無言の帰郷となった兵士達が眠っている。北支、ニューギニア、ルソン、レイテ、沖縄・・・・激戦地で戦死した若い兵士達のそれぞれの戦死地と階級と年齢、そして出身の集落が刻み込んである。この丘の真下に杉の大木がこんもりと茂っている神社がある。熊野鳴滝神社である。寛永元年(1245年)後嵯峨天皇の時代にこの地を治めていた三田井城主高千穂政信の建立とされている。神社の本殿までの長い急な石段を登ぼり、武運長久を願い、家族と別れ戦地へと向かった若者の姿が目に浮かんでくる。戦争の悲劇を今に伝える悲しい丘である。
 私が初めてこの丘に登ぼったのは、今から3年前の正月のことである。この村で「戦死」した熊野鳴滝神社の長い石段を登ぼらなかった一人の軍人の墓があることを耳にしたからである。

「朝鮮海峡に消ゆ」との報告
 昭和20年3月、米空軍はマリアナに500機、フィリピンにマッカーサーの1700機のB−29を進出させ、 戦力の極度に低下した日本本土にすべての最終攻撃の目標を定めていた。最後に残されたわずかな航空戦力で本土防衛を戦い抜こうとしていた日本軍は、世界戦争史上で例を見ない「非情の戦法」を考え出した。攻撃自体が必ず死を意味する「特別攻撃」である。日本の興亡を賭けた最終決戦の舞台は沖縄で展開されることとなった。昭和20年末より第6航空軍は天号作戦予定部隊を逐次、本州中部以東から九州に移動させた。飛行65戦隊は、茨城県の鉾田飛行場から目達原(めたばる・佐賀県神埼町)を経て、鹿児島県知覧基地へと部隊を移動した。1式戦3型襲撃機・隼が主力戦闘機である。当時の部隊に与えられた任務は、第6航空軍司令部主催の「特攻隊運用研究演習」である。すなわち、敵機の空襲の下で後方から続々と到着する特攻機を如何に安全に着陸させ繋留基地まで誘導し、また出撃させるかということであった。知覧基地を中心に沖縄の海へ向かって次々に飛び立った片道切符の特攻機は、米機動部隊の猛烈な火網の中に空しく散っていった。グラマンの攻撃が頻繁になった知覧から後退し目達原に戻った飛行65戦隊の勇士達は、直接機として涙で見送り、翼を振って最後の別れのあいさつをして沖縄の海へと消えていった戦友を犬死にさせまいと、母国の勝利を信じ最後の最後まで連日の猛特訓に耐えていた。
 昭和20年8月7日夜、一機の隼は他の僚機とともに目達原基地から長崎県壱岐へ向けて5分間隔で夜間航法訓練に飛び立った。飛行時間約1時間の距離である。敵の攻撃もなく、穏やかな月夜の晩であった。僚機が次々に基地に着陸するなかで、未帰還の隼が一機あった。戦局も終盤を迎え。戦闘機の故障も多かった。未帰還の隼は朝鮮海峡に消えたのである。十分な捜索もされないままに一週間後には「玉音放送」により戦争は終わりを告げた。 「実は小河内山中に」
 小河内(おごうち)の集落は、「成喜屋」の横から熊野鳴滝神社の鳥居のすぐ下を抜け、約1キロ山手へ登ぼったところから始まる戸数10戸程の静かな山あいの集落である。この谷筋を登ぼり峠を越す道は、かつて熊本県津留を経て大分県竹田へ行く交通路であった。特に高い名のある山もなく地元の人々は、この付近の山一帯を総称して小河内山と呼んでいる。しかし、この山の中で特に地元の人々が区別して呼んでいる山がある。通称「鹿児島山」である。その名の由来は、いたって単純で、山の持ち主が代々、鹿児島県のひとであるからに過ぎない。この山の境に戦前から小屋がけをして炭を焼く一家があった。もともと、この山一帯は里に近いにもかかわらず、自然林に恵まれ、全国各地から集まった山師の多いところでもあった。当時はこれらの山を相手の仕事を生業としている家だけでも20数軒もあったという。
 また、この山の中腹に彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)の御陵と伝えられる中心の大石の回りに、丸い小石をたくさん積んだ円墳のような「墓」がある。古事記によると、「彦火々出見命の御陵は高千穂山の西にあり」とされ位置的にも合致すると言われている。今でも村人の尊信のあついところである。
 この御陵から約200メートル下ったところに小屋がけをして炭を焼いていた森源一老人は、終戦後しばらく経たある日、小河内谷の支流の目の届きにくい奥まった斜面に不思議な大きな物体があるのを見つけた。急な崖をよじのぼり近づいて腰を抜かさんばかりに驚いた。一機の翼に日の丸を付けた日本軍戦闘機が墜落していたのである。操縦席には、飛行服に身を固めた一人のパイロットの無残な姿があった。驚いた森老人はさっそく村の警防団の幹部に報告した。終戦当時、村では、赤痢の大発生に見舞われた。臨時の隔離病棟となった田原小学校の講堂には、約110数名の患者が収容され、十分な医療も受けられないまま、結局22名の死者を出してしまった。当時の第18代田原村村長矢津田義武も、自ら素裸になり昇こう水の風呂に入り、手押し噴霧器で消毒して回ったという。敗戦の大混乱に加えて赤痢の発生、戦死者の無言の帰郷と村は大パニックを引き起こしていた。わずか5人の職員しかいない小さな村役場で内倉午一、河内信雄、内倉ミツエそれに復員したばかりの内倉正敏、内倉要三らは、これらのすべての仕事をこなしていた。
 東京都莅原区小山町に当時住んでいた家族のもとに一通の戦死報告とともに、1尺四方の白布に包まれた木箱に納められた遺骨が届いた。祖国の為に若い命を捧げたとは言え、長男を亡くした家族は深い悲しみに打ちひしがれた。
 軍人墓地の、ちょうど奉霊殿寄りの一角に聞き慣れない姓の一基の墓がある。「昭和20年7月27日小河内山中ニテ航空機事故ニヨリ殉職 陸軍軍曹 徳義仁ノ墓」と刻まれている。当時の年齢も出身地も書かれていない。しかし、この村の人々は、墓碑を建てて以来、ずっと毎年春と秋には合同慰霊祭を開き供養してきた。一度も線香と花の絶えた年はなかった。
 しかし遺族が墓参に訪れたことは一度もなかった。

「現地に日の丸を掲げる」
 平成3年元旦、参拝者で大混雑するかっての不幸な戦争で散った数多くの英霊が眠る靖国神社の長い参道を、人ごみを避けるようにしながら、不自由な足を引きずるように、そして、それをかばうように歩く一組の母と娘の姿があった。知覧を飛び立ち、朝鮮海峡で戦死した長男のことが、92才になった今も忘れようとして忘れられずに、戦後初めて混雑する元旦に敢えて参拝したのである。
 ちょうどその日の夜、私は、一度もお会いしたことのない方に、返事の来るあてもない長い手紙を書いていた。宛先は、やっとのことで捜し出したこの靖国神社の境内をゆっくりと歩いている母娘へ、徳軍曹の最期の地を知らせる手紙である。何度も防衛庁戦史資料室や品川区役所に問い合わせて、ようやく戸籍の附表を入手することができた。1月5日付けで発送、8日着、早速その夜、電話が鳴った。徳軍曹のお姉さんからであった。丁重なお礼と、一刻も早く墓参がしたいとのことであった。1月の山はまだまだ寒く、加えて事前調査も不十分であり、3月にとの約束をした。
 平成4年3月1日、現地調査に出かけた。最初に軍人墓地の墓について教えていただいた元田原村役場職員の安在計時氏、元田原村遺族会会長でもあり現場近くの小河内に住む有藤俊太郎氏、鹿屋海軍航空隊から復員後、現地から隼の残骸を搬出し、また遺骨の埋められた石塚の場所をかすかに覚えているという甲斐昭男氏、それに陸軍航空兵として南方を転戦し九死に一生を得た同じ元陸軍軍曹の義父と私の5人である。
 小河内の集落を流れる小河内川は、昭和63年5月3日夜半、時間雨量150ミリ以上という未曽有の局知的ゲリラ豪雨に見舞われ、土石流が発生、幸いに人的被害はなかったものの、まさに山を洗い流したようなさんざんたる状態だった。沢伝いに転石を乗り越え、かすかに残る旧道を辿りようやくのことで現地とおぼしき場所に到着した。一同、線香と菊の花を供え黙祷を捧げた。薄暗い杉の木立の中にかすかに人為的に積まれたと見られる石塚があった。甲斐氏の古い記憶による小さな滝から流れ込む支流との合流点であったとのことから間違いないと判断した。野苺の蔓に覆われしかも崩落した山の急斜面を墜落現地に向けてよじ登った。この場所も山の表面が削られ、当日は隼の残骸の一部を回収することはできなかった。有藤氏はザックを背負ったまま突然一番高い尾根の樫の木に登ぼりはじめた。ザックの中から何かを取りだし結び付け始めた。一本の大きな樫の木に結び付けられた日の丸と鯉のぼりが3月の空に色鮮やかにたなびきはじめた。

「ついにかなった遺族の墓参」
 平成4年3月26日早朝、安在氏と熊本空港へ車を走らせた。空港ロビーで、軽登山靴姿の3姉妹を見つけ出すのに時間はかからなかった。現地は相当山の中との連絡からの出で立ちであろう。初対面ではあるが何かしら、こうして案内するのは以前からの私の仕事であったような気がしてならなかった。途中、白川の湧水で喉を潤し、宿を予約してある阿蘇赤水まで御案内した。翌日、濃霧の中、阿蘇外輪を越え、再び赤水へと向かった。戦後、ずっと軍人墓地を管理してきた高千穂町の稲葉茂生町長へのお礼にうかがった。同席した興梠保明助役がかつての京都航空機搭乗員養成所の後輩に当たるのはまったくの偶然であった。  小雨の中、花束と線香を手にした御遺族と我々は軍人墓地に向かった。一番奥まった所にある徳軍曹の墓の前に御案内した。静かに墓碑に刻み込まれた一字一字を確認するように読み終えると、雨に濡れた墓石にすがりつき「やっと、会えたわね。寂しかったでしょう。・・・・・・お母さんも連れて来たかったけどもう思うように動けないわ・・・・。」一向に止む気配のない雨の中、47年目の兄弟の涙の対面に私も頬を伝う涙を抑さえることはできなかった。「これからも、よろしくお願いしますね。」と優しく隣の墓に声を掛けながら名残惜しそうに去っていく3姉妹の姿に、この丘に初めて立ってから3年目にして実現できた兄弟の再会にお役に立てたのは、故郷の山々と神々の靖国神社の神々との不思議な縁だったのかもしれない。

「攻玉社と多摩霊園」
 攻玉社学園は、目黒駅から東急目蒲線に乗り次の不動前で下車し、小さな坂道を登ぼるとすぐの所にある。詰襟姿の凛凛しい生徒達が校門を出て来る。正面玄関には明治維新の先覚者でもあり創立者でもある近藤眞琴の銅像があり「誠意、礼譲、質実剛健」の校訓が大きく書かれている。校名は「詩経」の「他山の石以て玉を攻くべし」の一節からとったという。日清、日露戦争当時の海軍将校の2031人中527人は攻玉社の出身であったとも言われている。昭和17年に、この門を出てから50年。事務室で来意を告げると事務長は大変恐縮され、数々の資料の提供を受けるとともに当時のままの校舎の一部も案内していただいた。同窓会名簿の中にある3人の男の兄弟は、いずれも故人となられているのは何の因果であろうか。
 今、私は、この名簿の中にある一人の消息を訪ねている。悲しい事故から数年立ったある日、東京から一人の男が田原村役場を訪ねてきた。大混乱から少し落ち着いた頃、東京の遺族のもとに事故を伝える連絡が届けられた。警視庁に勤務し敗戦後の焦土と化した東京の大混乱の中で、精神的にも経済的にも疲弊した中での日本の社会秩序維持に奔走せれていた厳父義忠氏は復員していた小学校以来の親友今野宣雄氏に早速現地入りを依頼した。親友の最後期の地に向かった今野氏は当時の交通事情の悪い中、汽車を乗り継ぎ、田原村に辿り着いた。当時兵事係の内倉要三氏は東京から来た「従兄」にぼろぼろになった飛行服と飛行靴を「成喜屋」の前で渡したという。親友の遺品を胸に傷心のなかに東京へ帰った今野氏は遺族へは、熊本県とある県の境付近の山深い所で木樵が発見したと伝えたまま、その後の消息は途絶えてしまった。終戦直後に戦死公報とともに届いた遺骨に「朝鮮海峡で戦死」とばかり思っていた遺族は、他人様の遺骨に手を合わせていた事実を知るとともに、また新たな悲しみに包まれた。飛行靴の中から出てきた小さな骨片に事実を確認することができた。遺族への連絡は飛行服の胸にあった厳父義忠氏からの葉書によるとされている。
 東京の多摩霊園の一角に徳家の墓地がある。墓誌には勲7等青色桐葉章報国院忠山義仁居士 昭和20年7月27日戦死(享年22才)、次男修氏(享年19才)、3男昭氏(享年23才)そして、厳父義忠氏は昭和43年5月29日に74才で没されている。徳家の墓地の近くに東郷平八郎元帥と山本五十六元帥の墓地もある。持参した日向夏を墓前に供えた。この日も雨の中であった。その足で桜が満開の靖国神社へお参りした。今年の元旦に参拝された御母堂の声が届いた靖国神社の境内には、平和の象徴である白鳩が人の気配におびえる様子もなく餌をついばんでいた。

「模範生だった徳軍曹」
 墜落の現場は、菜種梅雨で小河内側の源流の水藁も増し、晴天の日でも悪路で、折角登山靴まで用意された御遺族を案内することは出来なかった。林道終点で花と線香を捧げ帰路に着いた。田原中学校の校庭から鹿児島山の日の丸と鯉のぼりを捜したが、ちょうどその部分を高い等高線上に濃い霧が覆い確認することはできなかった。「弟も、きっと別れを惜しんでいるのでしょう。鯉のぼりも喜んでいるでしょう。大正13年5月10日の生まれでした。また、必ず訪れます。」熊本空港も濃い霧に覆われ、結局、予約便は欠航となり福岡空港までタクシーを飛ばされ東京には夜半に着かれたとのことであった。
 旧制知覧高等女学校女子勤労奉仕隊員の手記「知覧特攻基地」の中に飛行65戦隊の隊員のそれぞれの思い出が書いてある。徳伍長(知覧当時は伍長)「無口で模範生、空襲の時は手をつないで松林に逃げる」鹿児島県出身の御両親の血を引き、自分に厳しく他人に優しく、そして長男としての自覚と責任感の強い方であったという。事故死の昭和20年8月7日から1週間後、神州不滅の国もついに負けた。十分な調査もできないまま隊員はそれぞれの郷里に帰って行った。  あれから48年、敗戦を機に戦後の驚異的な経済成長を遂げた日本。人ゴミで混雑する東京の満員電車に揺られていると、もし、戦争がなかったらこの中に徳氏のお姿があったのではと不思議に思いつつも経済的に豊かになった日本人が「忘れたもの」をふと感じた。
 5月晴れの一日、祖母山登山の途中、田原中学校の校庭から鹿児島山の現場に目をやって見た。軍曹の御両親が鹿児島県の御出身であり、この山も鹿児島山とは皮肉な巡り合わせでもある。5月の空に日の丸と元気に泳ぐ鯉のぼりが肉眼でもはっきり見えた。この学校の生徒はかつての5分の1もいるであろうか。高度経済成長は、一方では全国の山村から人を奪い取り「過疎」を引き起こした。しかし、48年間ずっと身元のわからない徳軍曹の墓を代々守り続けてくれたこの村には決して「心の過疎」の時代だけは来ないことを信じている。
 山懐に抱かれた村の一角から春霞の鹿児島山を望んでいると遠くから飛行65戦隊の歌とともに、知覧の三角兵舎から飛び出しグラマンやB−29の空襲の中を女子学生の手を引いて誘導する軍曹の姿と、厳父からの励ましの葉書を胸に大事にしまい愛機とともに飛び立った凛凛しい軍曹の姿が浮かんで来る。

一 血闘空にたけるとき
  熱血燃ゆるつはどもが
  我れ殉忠の意気高く
  集いて誓う団結に
  明朗たり我が部隊
二 猛夏雲湧く会寧に
  隊伍作るや時を得て
  蚊竜翔けしノモンハン
  戦果を胸に腕を撫し
  辺境守る五十日
三 嗚呼残月を震わせて
  爆音吠える揚子江
  翼の休むひまも無く
  連戦苦闘死を越えて
  御稜威に勇む若桜
四 雄図は遠く南溟に
  戦火交ゆるレイテ島
  鉄血狂う唯中に
  健児怒号の襲撃機
  栄鬼の譽を奪いたり
五 千石揺がぬ神州に
  敵勢近く迫るとき
  百戦練磨の腕は鳴り
  今新たなる陣容に
  夜を日に叩く敵の基地
六 嗚呼全戦に天翔けし
  偉勲を秘めて更に練る
  必勝のわざ鉄の意志
  至誠使命に決戦に
  進め六十五戦隊
  飛行六十五戦隊

追記  県北の自然とは少しジャンルの異なるテーマとなってしまったが、普段何気なく歩いている山々にも、こんなドラマがあったことを是非皆さんにお話したくて一気に書いてしまった。すべてを書き尽くせなかったが、いつの日か一冊の本にまとめてもみたい。
 それにしても、この隼が墜落してから3週間後に同じ村の山中に米空軍のB−29が墜落し12名の搭乗員が即死したのは偶然である。両機の乗務員はすべて親の愛に育まれ、それぞれの兄弟姉妹の中に健気に育った人の子。戦争さえなかったら・・・・と思わずにはいられない。
 8月7日の夜、同じ戦隊で5分前に発進したという香川県在住の松原定男氏から当時のことについて何度も御手紙をいただいた。運命の皮肉かもしれない。田原、知覧、東京と歩いた。相当数の手紙も書いた。安在さんをはじめ地元の皆さんには本当にお世話になった。戦争を知らない世代の私が、何故このテーマにこれほどまでに執着したのか自分でもよくわからない。
 しかし、私がやらなかったらおそらく御遺族を現地に御案内することはなかったと思っている。このような出会いを作ってくれた我が家の「山の神」と「3人の山の神予備軍」に心から感謝したい。
 この原稿を書いている途中に東京から悲しい知らせが届いた。明治、大正、昭和そして平成と激動の時代を強く生きて来られた「靖国の母」が、6月25日に、忘れようにも忘れられない長男 義仁氏の最期の地のことについて知るのを待っていたかのように静かに92才の生涯を終えられたとの知らせであった。 (宮崎市在住 宮崎県畜産課勤務)

県北の自然を語る会会誌「ツチビノキ第3号」より


田原地区軍人墓地の徳義仁軍曹の墓


大分県下毛郡三光村八面山平和公園での平和祭
大分県下毛郡三光村八面山では戦時中に日本軍の紫電改がB29に体当たりして両方とも墜落しました。毎年5月2〜3日に米軍岩国基地やガールスカウトなどを呼んで村をあげてお祭りをしています。マラソン大会やカラオケ大会も同時開催され、満開のつつじの中、盛大に行われました。

  
三光村平和祭                  小学生の作文朗読                 高千穂の平和祈念碑奉賛会の甲斐秀国さん


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