(資料)高千穂町の麻栽培


麻の栽培について

 明治、大正、昭和、と長い間麻はこの地方の経済の支えとして、大切な農作物として、たくさんの農家に栽培されておったんです。ですが、終戦後は、麻薬の原料になるというこつで県の許しを得んことにゃ栽培できんようになり、許可を受けて栽培しておったが、現在ではその影も見られんようになってきました。
 マニラ麻、ビニールなどの化学繊維が増えてきたこつが原因じゃろうと思います。昔、麻は綱類、猟師の使う釣り糸などに使われ、時には、農家で糸をつむいで、作業着等も作りよったもんです。種々の行程を経て商品に仕上げ、これを目方で商人に売り、そんなお金が、農家の収入の大半を占めていました。椎茸、子牛、麻というもんが、農家の一年の生活費でした。
 それでは、これかり、そん重な麻んことについて、種蒔きから刈り取り、そして商品になるまでのことを、遠い遠い昔んことを思い出しながら、書いてみることにしましょう。
 まず、どこの農家も、上等の畑をたくさん持っとらんと、上等の品物を毎年大量に生産することはできんので、ほとんどの家が、三反から四反の畑を持っていて、栽培しとりました。この麻蒔き畑を、冬の一番寒い頃(十二月下旬かり一月上旬)深々と掘り起こして、三月の中下旬に入念に整地して種を蒔きます。たくさんの堆肥を入れんと、麻の伸びが悪いので、堆肥の運びかたがまた大変でした。それで、種蒔きの時にゃ、隣近所と手間がてり(共同作業)して、大人数でにぎやかじゃったもんです。村の種蒔きがひととおり済んだら、「オトギ」と言うて、一日農作業を休んどりました。その夜には、お神酒あげをして宴会になり、種蒔きの疲れをねぎろうたもんで、農家じゃ、おおかたの仕事にこの風習をしよったごつあります。
 種を蒔きつけて、四、五日すると眼が出っとですが、この時がまた大変でした。というのは麻の芽が出ると、それを食べる鳥がおって(一名アサ引きと言いよったが)この鳥に芽をひかれたら、不揃いのアサになるというこつで、朝早うから日の暮れまで鳥を追ったもんです。これは主に年より子供の仕事で、鳥追い場に集って焼いて食べた餅の味も、忘れられん思い出の一つになっとります。
 その後四、五、六月は、ほとんど手入れをせんでも、朝は元気に育ってくれます。
 さて、いよいよ旧六月の土用になると、刈り取りの時期となります。天気の長う続く日を選んで、そん作業にかかります。刈り倒して朝の葉ば落とし、ガラガラになるまで畑で乾かし家に持って帰ります。その後、村んもんが協同でそん麻ば、高さが約八〜九尺(二、五〜三メートル)、まわりが七〜八尺(二〜二、五メートル)の大きな樽で蒸します。これをそれぞれんもんが家へ持って帰り、また十分乾かして、必要に応じて麻のこぎ方ができるように茅葺き屋根の二階に上げておくのです。こん作業が済んだ時も、火の神様へお神酒をあげばして、慰労の宴が開かれ、次の作業の下準備の計画ばたてよったもんです。
 八月の中旬になると、麻おこぎがはじまります。一回に、三尺〆め(一メートル)四、五束を、野原に広げて四、五日夜露にさらします。これをおつけ場に運び、よう皮がはげるごつなるまで、二昼夜ばかり水タメにつけときます。こん皮ば、家族のもん皆で一本づつはぎ(これを「オハギ」と言いよりました)はいだ皮は、良く根元を揃えて、手いっぱいくらいになったらしっかりしぼります。それが三束一組くらいになったものを一ねじりとして、十五ねじりくらいのものに、木灰と麦カラ灰とを混ぜ合わせたものを、十分もみほぐし、大釜に入れて、上にカマスかムシロをかけて途中上下を入替えながら、三時間程煮ます。よう煮えたら、流れ川か用水みたいな所へ運び、カスばとります。
 この道具は、「コギハシ」と言うて長さ三〇センチのスズ竹で、目の通りの良いもの二本ば組み合わせて作ります。カス取りをして仕上げたもんが、糸、着物、綱をつくる原料となるのです。おこぎがしまえたら、コギハシと御神酒を川に流しよりました。
 こん麻おこぎは、全部おなごの手で行われ、こん作業のうまい娘さんが、良い家の嫁じょに早うもらわれたごつあります。最盛期には、私の集落でも十四、五人の こぎ女が、毎日おこぎ小屋に通うとりました。未婚の娘がおる小屋にゃ、異性の客もよう訪れて、嫁じょの下見等もあったごつ聞いています。見合の場所も、今と昔じゃ大きな変りようです。こんげなおこぎ場で、おなごしに歌いつがれた「じょうさん節」という歌があります。

一、あわぬこぎはし あわする辛さ
   いやな男に 会う辛さ
   じょうさん、じょうさん、じょうさん
二、姉がさすなら 妹もさしゃれ
   同じじゃのめのからかさを
   じょうさん、じょうさん、じょうさん
三、つれて行くから 難儀はさせぬ
   荒い風にも 吹かしゃせぬ
   じょうさん、じょうさん、じょうさん

 商品としての麻の仕上げ(おこぎ)は、盆前と正月前の一番お金の必要な時期にするこつが多く、これが、農家の経済の大きな支えになったと言うこつは、言うまでもありません。毎年おこぎがおおかた片付く頃にゃ麻おこぎ女達は、おこぎ屋の地主さん方に集まって、長い間お世話になった小川の水神さんに御神酒上げをし、そん夜は、そん夜は、慰労の宴が夜遅うまで行われとりました。そん時の歌や踊りのそりゃ賑やかだったこつは、今なお村ん中で語り残されているのです。こうして、種蒔きより、刈り取り仕上げといろんな行程を経て、大変な手間をかけて、商品になった麻は、欠くことのできん収入源でした。
 私達農民を助け、農民に愛された麻の一生は、いつまでも、長く語り残したく、思いのままを筆に表して止めておきます。

高千穂農業改良普及所 「けやき」(農村高齢者活動促進特別事業記念誌) 1982年、P80-85より



大麻栽培

 麻は春彼岸に蒔くので二月下旬から畑の整地を始めて、出来上がると三月二十日前後から組内協同で堆肥運搬をして一週間から十日位で終る。組内では早速おどき祭をして、おどき祭にはさんしょう味噌をつけた田楽と稲荷ずしを作り組内一同集ってにぎやかに祭が行われていた。
 七月二十日土用にはいると麻刈が始まる、朝四時半頃から仕事を始めて夜十時頃まで作業を続けて本当に重労働だったと思う。私も実際にやって見ました。鎌をよくといで麻をななめに倒して鎌を平に使えば麻刈は足はいためません。麻刈は夕立がこなければ四〜五日位で乾きます。乾きますと若竹を切って長さ二ひろ一尺(三、三m)に切りそれを割り皮と身を引きわけてそれをたかのと言い、そのたかので麻をくくり家屋に片づけて居た様でした。
 十一月下旬から十二月始めに麻の夜露とりを一週間位かけて終る。ここはしこぎ竹を十月下旬頃にしておかなければならない、竹をきる時期がよいのと麻出来上がりがよしわるしははしこぎできまります。夜露とりが終った麻は永之内の人はみんな鶴門に持って行き水温の高い川につける。夜露がとれていれば一週間位でへげていた(皮がはげる)様です。麻へぎには朝八時頃には行き、火をたきながらへいでいると寒い日には麻が凍る。又川につけると川の水が温かいので又とける。夕方五時頃に帰り早速よい灰でへいだ麻にまめし終ると、釜にいれてあく水も入れなければならない。上に古むしろをかぶせて二時間位火をたき、そして二晩たく。今度ははふぶき作った麻こぎ屋で麻こぎが始まります。この麻こぎ屋が永之内には十二位あったと思います。麻こぎは一回分が一週間位で終ったのではないかと思います。こいだ麻は夕方持って帰ると竹竿にかけていろりのたき火で乾かす特別な寒い晩には竹竿からおろして古着物につつんでおかないと凍ってだめになる。一月中に出来た麻は値段が高かったようで、水温が高くなってからは値段も安かった。
 麻こぎをすると粕が出るのでその麻粕を平たい石の上で棒でたたき水につけよく洗い出来上った物が麻粕で、これは女のまつぼり(内職収入)だったようです。
 麻は私達の衣類に使われています。
 はた(機)で織って作った製品がこぎん(小布)と言って私も着た事があります。また蚊帳なんかにも使われていたようです。
 大麻耕作は終戦後許可を受けなければ耕作できなくなり昭和二十七年頃までで耕作者がなくなりました。

上下永之内集落史編さん会・高千穂農業改良普及所 「伝承ながのうち」 1987年 P142-143より



高千穂の麻の栽培加工


 高千穂の麻の栽培加工は、相当に古く、高千穂神社の本殿の裏側にある彫刻を見ても「麻こぎ小屋を覗いている絵柄を見てもわかる。終戦後は、100町歩をはるかに超えていたようであるが、終戦后、米軍が進駐して来てから、麻の種子には麻薬を含んでいることで、許可制となり更に、マニラ麻の輸入によって、栽培面積も次第に減少し、現在では殆どない。
 麻の栽培加工は、その当時どんな方法でやっていたのかを、知る機会があった。
おまき肥と言うと、完熟して土のようになった堆肥が主体である。精密に耕した畑の処々に、この肥が積んである。種子の蒔付前に、蒔溝を掘るが、六−八寸間隔になっている。ある程度密植にしないと太りすぎて、立派な麻が取れないからである。
そめ肥、おまき肥一束に、麻の種子を枡で計って加えるがこの時、これに一握りの種子を加えることによって、枝のない麻が取れるか否かの分れ道だと言うが、この技術は一寸した感だと言う。麻の種子を蒔肥に加えることを、「そめ肥」、と言うのだそうである。これを「肥じょうけ」に入れ、前向きに蒔き乍ら足で土をまぜて行く。
刈取りと、葉打ち、七月下旬から八月中旬になると、刈取りが始まる。刈取りは、鋭利なものよりも少し位切味の悪い、すなわち「おかり鎌」を使い、廻し切りにしながら、半分は、折曲げるようにして刈取る。刈取ったものは、 竹で作った、刀のようなもので(刃が鋭くては駄目)、葉 を打落し刈取った、畑に並べて乾かす。
選別と小葉落し、葉打ちをしたものは、まだ小さい葉が残っているので、乾いてがらがらになっているのを長、短選別し、一握宛根元を持って、裏の方を地面に叩きつけて、小葉を落すのである。
釜蒸しと、保管、 乾し上げたものは一束五〇cmにし、蒸釜に立て蒸樽(高さ二−三m)をかぶせて蒸し、竹の「ヘゴ」で束にして保管する。保管する場所は、表の天井裏に上げる。
水浸し、秋の農繁期を過ぎると、青味を抜取る為に、屋外の庭や草原に拡げ、夜露に晒す。こうしたものを川に漬け、根元と裏の方二−三ヶ所を、板や石で押えて七日間位漬けておく。
おへぎ、川に漬けた麻を剥いで見て、剥げるようになったら、一度水からあげて皮をはぐのであるが、長く漬けておくと、ドロドロになって腐るので、一度に皮はぎをするのである。これを「おへぎ」と言う。勿論麻の上には、筵か何かで覆をし乾燥を防ぐ。
あく樽、 剥いだ皮は一握宛を束にする。灰にまぶした後、大釜に入れて焚く。原料の麻束(経五〇cm)四束分を、一度に釜の中に積重ね、蒸樽をのせてたく。時間的には不明だが、大釜の中では沸とうしているが、昔の人は只刈(小灌木を束にしたもの)三把位と言う。終ったら、大釜から引上げて「あく樽」につけておいて、徐々におこぎにかゝるのである。
おこぎ小屋、天地こんげん作りである。中央に、三〇−四〇cm巾の流れがあり、手前の方は座る場所、向う側に六寸巾の板の棚をおく。「あく樽」につけたものを、その日の行程をを見て、必要量だけ取り出し、樽の上に竹の簀をおき、その上にのせて汁液を除いておく。
はしこぎ竹、てこを應用したもので、二本の竹を根元で結ぶ。現在の火はさみの様なものである。この竹の間に麻をはさみ、水の中で表皮を剥ぐのである。表皮と共に短い繊維が除かれ、長いものだけが残る。表皮と短い「せんい」の混じったものを、「おがす」と言っており、これは女の小使銭になるわけである。竹には色々あるが、一番良いのは「すゞ竹」である。これは根元も裏も同じに大きさに伸びており、節間が長いから良いのである。普通矢竹と言われている、「まじのめ竹」もあり、又たかの竹と言って、屋根普請やその他束ね用に竹を割って使う、「にがし竹」もあるが、これらは、はしこぎ竹としては不向である。神事に使う御幣用の竹は、「にがし竹」である。
おがす、 表皮と短い「せんい」の混じったもので、これを更に平たい川石の上で、叩いて精製し、平たく葉形にしたものであって、乾燥したものを、手頃の大きさに引きさいて、縄にない三組にして綱を作る。
 「おがす」を取った残りを、「すさがす」と言い、左官などの壁塗り用に用いられ、重宝がられている。
荒そ、 麻畑の周囲には、必ず一−二列の麻が残してある。これは種子用である。種子が完熟すると、根を引抜いて並べて乾かし、廻棒で叩いて種子を取る。種子を取ったものは、小さい束にして根を切り取り、そのまゝ水に漬けて剥皮する。この皮が荒そである。
 昔の農家の「たゝみ」は、萱をを材料としており、この縦糸や、藁むしろの縦糸用として、「荒そ」を縄にした「たねり」ものを使用した、天草地方からこれを買い求めて、毎年幾組もの男女がこの地方に、出入りしたものである。
麻がら、剥皮をして残ったものを麻がらと言い、乾燥して保管し、種々の用途に用いた。
 (1)食事用の箸として用いた。一回使ったものは、かまどのたきつけ用とした。
 (2)屋根葺用に、屋根の下葺用にした。この麻がらが、厚い程丈夫な屋根と言われた。
 (2)たい松代にも使用された。

高千穂町老人クラブ連合会・高千穂町社会福祉協議会 「高千穂の古事伝説・民話」 1999年 P181〜183より


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